一兵卒
心の底から感激することができた。
毎晩のごとくパーティーに呼ばれたり、招かれたりするのが私たちの仕事のようなものであるが、今夜の集いは私にとって心の洗われる素晴らしい催物であった。嬉しかった。
招待状も案内状もなし、前日、事務所へ一人の後輩から電話があったという。この後輩こそが、高校、大学と私の歩んだ同じ道を追っかけてきた阪口和夫君である。永い間、母校の体育教員を務め、他校を経て今年の春、彼は定年退職の時を迎えた。その退職記念のパーティーが、関係ある先生方だけで行なわれると連絡をいただいた。
私は、まよわず、入っていたスケジュールをキャンセル。どうしても阪口君の会に出席せねばならないと思う。でなければ、この後輩は今まで信頼してきた私の人間性を疑うにちがいない。かれは、電話さえすれば、どんなに多忙であろうとも、絶対に出席してくれると自信をもっていたと思う。
私は、わざとちょっと遅刻した。関係深い先生方とのセレモニーの後の方が本人のためにも良いと判断したからだ。もちろん私も関係深いけれど、教員として私はその場におらず、あんまり雰囲気を壊してはならぬと考えたし、私自身、邪魔者ではないかという思いにかられたのだ。
阪口和夫君は、私の大阪府立佐野高の1年後輩として入学してきた。柔道部で厳しい練習に耐えて、ほとんど部を去っていったのに阪口君は残った。公立校だから、それほど強い学校ではなかったけれど、稽古だけはどこにも負けない厳しい伝統、弱音を吐くこともなく努力していた。
私はレスリング転向を考えていて、東京オリンピックに5名も代表を輩出した日体大に進学。ここへも阪口君は1年遅れて入学してきた。かれにとっては、大学の練習の厳しさは想像以上だったのかもしれない。くわえて、それほど素質に恵まれてもいないかに映った。
だが、私のスパーリング・パートナーとして、いつも私の側にいてくれた。私が全日本級のレスラーとして活躍する陰に、阪口君は犠牲的精神を発揮して協力してくれたのである。だから、私にとっては大恩人の後輩といえた。性格もよく多くの部員からも愛されていた。私は3年時でオリンピック予選に敗れてアメリカ留学に発つ際、阪口君は羽田空港で最後まで手を振っていてくれたことを忘れない。心の芯から私を応援してくれていた。
阪口君は卒業して母校の講師を数年した後、採用されて正教員として後輩たちを指導する。たくさんの立派な後輩たちを大学や社会へ送り続け、OB会の面倒をずっと見てくれたのである。私の近況も詳しくOBに伝えてくれたうえ、最大の応援を続けてくれた。
阪口君は国際審判となり、チームに帯同して海外遠征を繰り返してもいた。私は専修大の指導者となったが、阪口君の教え子を積極的にスカウト。いい学生ばかりをいただいた。
さて、パーティーは高校の先生と関係者ばかりだったので、私は背を丸めて静かに眺めていた。どの先生方の挨拶にも、最大の賛辞が阪口ご夫妻に送られた。その様子は、私にとっては本当に有難いものであった。私を追っかけて、私と同じ道を歩んだ後輩が、定年を迎えたのだから、感慨深いのは申すまでもない。
阪口君は、管理職に就こうとせず、“一兵卒”の教員として定年を迎えた。同級生の多くは校長になったりしていたのに、かれは望まなかった。その方が自由がきいたからであろう。彼は結びの御礼の挨拶で、自分の後輩の校長と教頭に仕えた話をしたおり、私の眼に涙が走った。心の葛藤に耐えた話だった。
“一兵卒”を決意した時点で、当然予想できた人事だったろうが、阪口君は担任をもってヒラ教師を貫徹したという。で、その様子を見てきた元同僚たちには美しく映ったのであろう。この後輩を私は誇りに思う。久しく質素で清々しい集いであった。虚飾のパーティーずれしている私には、とても新鮮で気持ちよい会だった。阪口君、ご苦労様でした。
08年07月02日
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